真田丸・真田信繁関連年表
西暦 (和暦) |
信繁 年齢 |
事柄 |
---|---|---|
1567年 (永禄十年) |
1 | 真田信繁(幸村)、真田昌幸の次男として誕生。母は山手殿。このとき、昌幸21歳、武田信玄の近習。兄の信幸は2歳。 |
1570年 (元亀元年) |
4 | 伯父、信綱が真田家の家督を継ぐ。 織田信長と徳川家康の連合軍、近江国姉川で浅井・朝倉連合軍を破る。 |
1572年 (元亀三年) |
6 | 信玄が家康を三方ヶ原で破る。 |
1573年 (天正元年) |
7 | 信玄死去。53歳。 |
1574年 (天正二年) |
8 | 祖父、真田幸隆死去。62歳。 |
1575年 (天正三年) |
9 | 信長・家康連合軍が武田勝頼を長篠・設楽原で破る。 伯父、信綱と昌輝が戦死。父、昌幸が真田家の家督を継ぐ。 |
1578年 (天正六年) |
12 | 上杉謙信死去。49歳。 |
1580年 (天正八年) |
14 | 昌幸が沼田城を攻略する。 |
1582年 (天正十年) |
16 | 小田郡が信濃に進出。武田勝頼自害。37歳。武田氏滅亡。 昌幸、信長に臣下として従う。 信長、本能寺にて死去。49歳。 昌幸が北条、徳川と相次いで属する。 |
1583年 (天正十一年) |
17 | 昌幸、上田城の築城を開始する。 |
1585年 (天正十三年) |
19 | 昌幸が上杉に属する。家康が真田に軍勢を差し向ける。信繁が海津城へ人質として出仕し、上杉景勝に援軍を求める。 真田軍が上田で徳川軍を破る。(第一次上田合戦)徳川は支城丸子城を攻めるが落とせず。 石川数正が家康に背いて秀吉の下へいく。徳川軍が信濃から撤退する。 信繁が大坂城の秀吉に出仕するようになる。 |
1586年 (天正十四年) |
20 | 家康が昌幸討伐のため駿府まで出馬するも、秀吉の命令で引き返す。 秀吉が昌幸の罪を許し、昌幸を家康の配下とする。 |
1589年 (天正十七年) |
23 | 信幸が家康に出仕。 秀吉の命により、沼田城を北条氏康に渡す。信幸は伊那郡に移る。名胡桃城は真田に残る。 沼田城主、猪俣邦憲が名胡桃城を奪う。秀吉が北条氏の追討命令を出す。 |
1590年 (天正十八年) |
24 | 秀吉が北条氏を攻める。昌幸、信幸ら真田勢は松井田城や箕輪城などを攻撃する。 秀吉は小田原城へ進軍し落城させる。 信幸が本多忠勝の娘と、信繁が大谷吉継の娘と結婚する。 |
1592年 (文禄元年) |
26 | 朝鮮出兵。昌幸父子は秀吉に従い肥前国名護屋に。 |
1593年 (文禄二年) |
27 | 信幸が伏見城の普請を命じられる。 |
1594年 (文禄三年) |
28 | 信幸が従五位下伊豆守、信繁が従五位下左衛門佐に任ぜられる。豊臣姓に。 |
1598年 (慶長三年) |
32 | 秀吉死去。62歳。 |
1600年 (慶長五年) |
34 | 家康が上杉景勝討伐のため関東へ向かう。昌幸、信幸、信繁が従う。 家康方の伏見城を石田三成が攻撃。三成が昌幸らに密使を送る。昌幸と信繁は豊臣方につき、徳川の陣を発つ。信幸は徳川に残る。 徳川秀忠が上田城を攻めるも敗れる。(第二次上田合戦) 関が原の戦い。東軍が圧勝。昌幸と信繁は九度山に移る。信幸は沼田領と上田領を継ぎ、信之と改名する。 |
1611年 (慶長十六年) |
45 | 昌幸が九度山で死去。65歳。 |
1612年 (慶長十七年) |
46 | 信繁が出家、好白と名乗る。 |
1614年 (慶長十九年) |
48 | 家康が大坂追討を命令する。真田家は信幸病気のため、長男、信吉と信政が参陣。 豊臣秀頼の使者が九度山の信繁を訪れ入城を促し、信繁はこれを受ける。 大坂城に入った信繁が真田丸を建造する。 大坂冬の陣、真田丸は東軍の攻撃を防ぐも、講和条件により破壊される。 講和中、家康は信繁を勧誘するが応じず。 |
1615年 (慶長二十年) |
49 | 家康が大坂再討伐を命令する。 道明寺・誉田の戦いで、信繁は伊達隊と戦闘。 天王寺・岡山の戦いで、信繁が家康の本陣に突撃、討ち死にする。49歳。 大坂城落城。豊臣秀頼、淀殿ら自害。 信繁の長男、大助が殉死。16歳。 |
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