「真田丸」の物語

石田三成と信繁が義兄弟となる

信繁、伏見城の普請奉行を命じられる

 文禄3(1594)年1月、伏見城の建設が始まります。建設の理由は2つあります。1つめは、秀吉は明との講和が不満だったらしく、日本の凄さを見せつけてやりたいという思いがあったから。そして2つめは、秀吉はいずれ大坂城を生まれたばかりの秀頼に譲りたいと思っており、そうすると自身の隠居城もこれまでの屋敷ではなく立派な城が欲しいと思ったからです。
 秀吉は信繁に伏見城の普請奉行を命じます。20万人の人夫を集め、材木を調達し、築城を進めます。築城開始から2年後、文禄5(1596)年、ついに伏見城は完成します。ところが7月12日、慶長伏見地震によってあえなく倒壊してしまいました。この倒壊で600人が圧死したといわれています。
 のちに、伏見城は以前合った場所から1キロ東の場所に再建されます。このとき、信幸と信繁が普請を手伝います。先の地震では火事はほとんど起こらず、材木をほとんど再利用できました。そのため、建設はスムーズに進んだといいます。

 

石田三成の弟と信繁の妹が結婚

 石田三成は佐和山城19万4千石の城主となっていました。三成は信繁を気に入り、縁を結びたいと思います。そして、三成の弟・石田頼次と信繁の妹が結婚し、三成と信繁は義兄弟となったのでした。

 

秀次の切腹

 文禄2(1593)年、拾(のちの豊臣秀頼)が誕生すると、跡継ぎ候補だった秀吉の甥、関白・豊臣秀次は疎外されます。秀吉は当然実子に継がせたいと考えるようになったのでしょう。文禄4(1595)年、秀次は謀反の疑いをかけられ、切腹となります。秀次だけでなく妻子39人も処刑されます。その中の1人、秀次の妻・一の台は昌幸の妻・山手殿の妹だったという説もあります。

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信繁の父、昌幸は幼いころ武田信玄に見出され、奥近習衆となります。
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第一次朝鮮出兵(文禄の役)、信繁は兵站を担当
第二次朝鮮出兵(慶長の役)の最中、秀吉死す
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真田親子が敵味方に(犬伏の別れ)
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徳川秀忠が上田城を攻める(第二次上田合戦)
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関が原の戦いは東軍の圧勝 信幸、父弟の助命を乞う
西軍4万、東軍4万とも言われる壮大な戦いは、夕方には東軍の圧勝が決まりました。
昌幸と信繁、九度山に配流される
配流が決まった昌幸と信繁。九度山での生活が始まります。
大坂冬の陣 信繁に出陣命令
家康は豊臣秀頼に宣戦布告します。これが大坂冬の陣の始まりです。信繁と信之にも出陣命令が出されます。
信繁、大坂城入城、真田丸を建築する
大阪冬の陣 信繁は真田丸で奮闘する
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和議が成立 堀も真田丸も埋められる
徳川軍の兵糧不足も現実味を帯び、また真冬の戦いということもあって、両軍の間で講和の話が交わされ始めます。
大坂夏の陣 信繁死す
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