「真田丸」の物語

第二次朝鮮出兵(慶長の役)の最中、秀吉死す

秀吉が明の使者に激怒する

 文禄5(1596)年9月、明の使者が来日します。使者は秀吉の前で明の帝の勅諭を読み上げます。その中の「日本国王に封ずる」に秀吉が激怒します。わざわざ明に封ぜられなくとも、もともと自分は日本の王であると憤慨。朝鮮の王子を人質にもらうという条約も無視されており、秀吉は2度目の朝鮮出兵を決めます。

 

慶長の役が始まる

 第二次朝鮮出兵で昌幸は兵站を任されました。慶長2(1597)年1月、日本軍14万が上陸します。蔚山(ウルサン)で築城しますが、明・朝鮮軍に攻撃され、4万4千の兵に包囲されてしまいます。そんななか、従軍していた信幸と信繁の家臣、矢沢頼綱が戦死してしまいます。信幸にとっては育ての親のような存在だったので、甚だ落ち込んだといわれています。

 

援軍が駆けつけ窮地を脱する

 蔚山城は包囲され、日本軍は籠城戦を敢行します。相手の四方からの攻めにはなんとか絶えますが、飢えには勝てません。兵糧が尽きると、兵士は壁土を食べたといいます。やがて、日本の援軍3万が駆けつけ、明・朝鮮軍は撤退します。しかし、軍内は厭戦気分で包まれ、ほぼ全員が日本に帰りたいと思っていました。

 

秀頼を五大老・五奉行に託し、秀吉死す

 慶長3(1598)年3月、秀吉は五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)・五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)を呼び、「秀頼のことをよろしく頼む」と後をを託します。
 5月から秀吉は病床につき、8月18日、死去します。秀吉の死により、朝鮮に渡っていた日本軍は次々と引き返してきました。

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配流が決まった昌幸と信繁。九度山での生活が始まります。
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大阪冬の陣 信繁は真田丸で奮闘する
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大坂夏の陣 信繁死す
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