「真田丸」の物語

「真田丸」の物語記事一覧

祖父、幸隆が武田信玄の家臣として活躍

 天文16(1547)年、真田信繁の父、昌幸は、幸隆の三男として生まれます。幸隆は武田信玄の家臣として仕えていました。 そのころ、信玄は戸石城を攻撃していました。戸石城は川中島の糸口であり、どうしても手に入れたい城でした。 しかし、戸石城の村上義清はよく守り、信玄の攻撃をいずれも跳ね返し、攻略の隙を...

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父、昌幸は信玄の奥近習衆となる

 真田昌幸が7歳の時、武田信玄に人質として預けられます。信玄は昌幸の能力を見抜き、人質としては異例の奥近習衆(信玄の秘書)に抜擢します。 永禄4(1561)年、第4回川中島の戦いでは、信玄の夜襲が見破られ、上杉謙信との一騎打ちに持ち込まれます。このとき、昌幸は信玄の側に仕えていましたが、微動だにしな...

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信繁の誕生

 永禄10(1567)年、真田昌幸の次男として信繁(幸村)が誕生します。 母は山手殿。兄、信之も山手殿の子でこのとき1歳。 昌幸はこのころ、武田信玄のもとで足軽大将に出世し、着実に信玄の信頼を得ていました。 元亀3(1572)年、信玄は3万の兵を率いて西上を開始します。家康を滅ぼしいよいよ天下を狙い...

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長篠の戦いで伯父が戦死、父昌幸が家督を継ぐ

 武田信玄の死後、真田昌幸は息子の武田勝頼に仕えるようになります。 天正3(1575)年、長篠の戦いが起こります。織田信長・徳川家康と武田勝頼の戦いです。 信長は3千の鉄砲隊を用意します。一発打つと次打つまでに時間がかかるという弱点を、列になって代わる代わる打つことで補いました。さらに武田の騎馬軍団...

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昌幸、上野の領土争いで奮闘する

 衰退した武田勝頼は真田昌幸に援軍を頼み、昌幸はこれを承諾。家臣団の中枢を担う旗本となりました。 天正6(1578)年、越後では上杉謙信が死に、景勝派と景虎派に分かれて後継者争いが勃発しました。 武田勝頼は北条氏と同盟関係にあり、同じ景虎の支援にまわりました。しかし、景勝の家臣・直江兼続が勝頼に手を...

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武田家滅亡、昌幸は帰属先を転々とする

武田家滅亡 天正10(1582)年2月、信濃の木曽義昌が反乱を起こします。織田信長と内応し、織田の兵を木曽に引き入れたのでした。 信長の長男、信忠は信濃に進攻。それに対し、武田勝頼は塩尻峠、真田昌幸は諏訪に布陣します。 ところが、勝頼の家臣、穴山梅雪が勝頼を裏切り、徳川家康に降ってしまいました。勝頼...

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家康が上田城を攻撃 第一次上田合戦

 昌幸が上杉に帰属したことを知った家康は激怒し、上田城攻撃を決めます。 天正13(1585)年、家康は軍を編成、上田城へ総攻撃をしかけます。ところが、上田城はもぬけの殻。罠だと気づいた時にはもう遅く、待ち伏せしていた昌幸の鉄砲隊が一斉に攻撃します。 かろうじて助かった兵は撤退しますが、今度は待ち伏せ...

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昌幸が秀吉に帰属 家康と味方同士に

昌幸、家康ともに秀吉の配下に 家康の攻撃を防いだ真田昌幸でしたが、援軍を送ろうともしなかった上杉景勝に不満を持ち、帰属先を変えようと決意します。昌幸は景勝を見限り、秀吉に助力をお願いしたいと手紙を出し、秀吉からは了承をもらいます。 気になるのは人質に出していた信繁ですが、好機が訪れます。天正14(1...

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名胡桃城が乗っ取られる

秀吉が九州を平定、惣無事令を出す 天正14(1586)年、秀吉は九州平定に着手します。翌、天正15(1587)年には九州制圧に成功。秀吉は関東・東北に惣無事令を出します。惣無事令とは大名間の私的な争いを禁じた法令です。この惣無事令が真田家、そして関東の趨勢に大きく関わることになります。名胡桃城が乗っ...

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秀吉の小田原攻め、信繁が初陣

 小田原攻めを決めた秀吉は、真田昌幸に北陸の支隊を命じます。他北陸支隊には、前田利家、上杉景勝、依田康国といった面々が名を連ねます。信繁の初陣 天正18(1590)年3月、秀吉は京都を出発し、4月には小田原城に到着します。総勢20万以上の大軍勢でした。 この頃、信繁は秀吉のもとで元服しており、源次郎...

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第一次朝鮮出兵(文禄の役)、信繁は兵站を担当

 秀吉は朝鮮出兵を決めると、名護屋城で準備を進めます。 真田家の陣屋は名護屋城の北西にありました。真田昌幸と信幸は渡海せず、本城の手伝いをしていたといいます。信繁は義父である大谷吉継とともに兵站を担当しています。兵站とは軍の後方支援で視察や船の準備、武器の調達のことです。信繁の部隊は大谷吉継の屋敷が...

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石田三成と信繁が義兄弟となる

信繁、伏見城の普請奉行を命じられる 文禄3(1594)年1月、伏見城の建設が始まります。建設の理由は2つあります。1つめは、秀吉は明との講和が不満だったらしく、日本の凄さを見せつけてやりたいという思いがあったから。そして2つめは、秀吉はいずれ大坂城を生まれたばかりの秀頼に譲りたいと思っており、そうす...

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第二次朝鮮出兵(慶長の役)の最中、秀吉死す

秀吉が明の使者に激怒する 文禄5(1596)年9月、明の使者が来日します。使者は秀吉の前で明の帝の勅諭を読み上げます。その中の「日本国王に封ずる」に秀吉が激怒します。わざわざ明に封ぜられなくとも、もともと自分は日本の王であると憤慨。朝鮮の王子を人質にもらうという条約も無視されており、秀吉は2度目の朝...

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真田親子が敵味方に(犬伏の別れ)

天下は家康派と三成派に分かれる 秀吉が死去した翌年の慶長4(1599)年、五大老の一人、前田利家が亡くなります。”重し”の無くなった家康は、大名同士の婚姻禁止という約定を無視し、多くの大名と政略結婚をし、次々と味方につけます。家康は徐々に天下取りに近づきます。 一方、豊臣秀頼や淀君の信頼を得ていた石...

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徳川秀忠が上田城を攻める(第二次上田合戦)

昌幸は上田で迎え撃つ覚悟 慶長5(1600)年7月、犬伏で信幸と別れた真田昌幸と信繁は上田城に戻ります。昌幸は「徳川の第2軍が中山道を進軍するだろう」と踏み、ここ上田で止めようと決意します。昌幸の読みどおり、家康は秀忠に「中山道から美濃に出て、我軍と合流せよ」と命令します。水攻めで徳川軍を破る とは...

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関が原の戦いは東軍の圧勝 信幸、父弟の助命を乞う

関が原の戦いは東軍の圧勝 慶長5(1600)年9月15日、井伊直政が宇喜多秀家に鉄砲を射つ。これをきっかけに関が原の戦いが始まりました。西軍4万、東軍4万とも言われる壮大な戦いは、小早川秀秋の裏切りが決め手となり、夕方には東軍の圧勝が決まりました。昌幸に足止めされてた徳川秀忠は遅れて到着 一方、昌幸...

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昌幸と信繁、九度山に配流される

九度山に配流が決まる 慶長5(1600)年12月3日、昌幸と信繁の九度山への配流が決まります。昌幸と信繁、その妻子、そして16人の従者は九度山に移り住むことになりました。当初の生活費は信之の仕送り頼みでした。信繁に息子、大助が生まれる 九度山に移り住んだ頃、信繁に息子、大助が生まれます。信之からは誕...

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大坂冬の陣 信繁に出陣命令

大坂城から迎えが来る 慶長19(1614)年10月1日、家康は豊臣秀頼に宣戦布告します。家康はこう言います。「余は秀頼に戦意を捨てるように諭してきたが秀頼は迷妄して悟らない。よってこれを兵を持って取り除かなければならない」これが大坂冬の陣の始まりです。 10月2日、大坂城内から大野治長の使者が九度山...

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信繁、大坂城入城、真田丸を建築する

信繁は軽い扱いをされる 信繁は大野長治の下に就くことになっていました。山伏姿で大坂城に到着した信繁一行。それを見た大野長治の若い家臣たちは「たいしたことのないやつだ」と思い、「刀を見れば実力が分かる」と信繁に言います。信繁は刀を渡し、若い家臣が鞘から抜くと、出てきたのは”妙法村正”。予想外の名刀に若...

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大阪冬の陣 信繁は真田丸で奮闘する

篠山に鉄砲隊を控えさせる 大坂城の弱点である南をカバーしていた真田丸。さらにその南には、篠山という篠の生えた小高い丘がありました。そこに信繁は鉄砲隊を控えさせ、信繁自身は真田丸に入り、家康の軍勢にあたります。篠山から徳川軍を狙い撃ち 徳川軍で真田丸にあたっていたのは前田利常でした。家康は真田丸攻略の...

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和議が成立 堀も真田丸も埋められる

和議の条件 徳川軍の兵糧不足も現実味を帯び、また真冬の戦いということもあって、両軍の間で講和の話が交わされ始めます。淀君は和議を拒んでいましたが、大坂城に大砲が打ち込まれ、その悲惨な状況によりついに応じることになりました。 和議の条件は「本丸を残して二の丸、三の丸は壊してもよい」「秀頼の領地安堵」「...

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大坂夏の陣 信繁死す

後藤又兵衛の作戦 1615(慶長20)年4月12日、大坂城で軍議が開かれます。堀は埋められ城は裸同然。そこで後藤又兵衛は平原に出て戦うことを提案します。険阻な地形を利用すれば家康を討てる。又兵衛は大和口で迎撃する作戦を立てます。 西軍は前軍と後軍に分かれることになりました。後藤又兵衛は前軍、真田信繁...

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