「真田丸」の物語

徳川秀忠が上田城を攻める(第二次上田合戦)

昌幸は上田で迎え撃つ覚悟

 慶長5(1600)年7月、犬伏で信幸と別れた真田昌幸と信繁は上田城に戻ります。昌幸は「徳川の第2軍が中山道を進軍するだろう」と踏み、ここ上田で止めようと決意します。昌幸の読みどおり、家康は秀忠に「中山道から美濃に出て、我軍と合流せよ」と命令します。

 

水攻めで徳川軍を破る

 とはいえ、秀忠軍は3万8千に対し、真田軍は5千。数では圧倒的不利。単純な籠城で持ちこたえるのは不可能です。そこで昌幸は上田城のそばにある神川を利用します。

 

 秀忠は守る昌幸に「もう援軍は来ない。投降せよ」と勧告します。昌幸は「わかった」と返事しますが、数日経っても開場しません。しびれを切らした秀忠は攻撃命令を出します。

 

 実は開城の準備をしてると見せかけて、昌幸は神川の上流をせき止めていました。秀忠軍が攻撃の準備のために大勢で水を汲みきたところを狙って、昌幸はせき止めていた川を決壊させます。

 

 あっという間に水が反乱し、秀忠軍は大混乱に陥ります。そこに真田軍が現れ、多数の兵を打ち取ります。秀忠軍は大損害を受けました。

 

昌幸、苅田戦法を破る

 次に秀忠は”苅田戦法”に出ます。
 苅田戦法とは次のような戦法です。

  1. 攻撃側が城の周りの稲を刈り取る。
  2. 見かねた城兵が城を出る。
  3. その隙に城に入り、城を落とす。

 しかし、昌幸は秀忠が苅田戦法でくることを読んでいました。城兵が出てきたところを、秀忠軍が押し寄せ、城に入ろうとします。しかし、そこには真田兵が待ち伏せており、たちまちに秀忠軍を撃退しました。

 

秀忠は上田を諦め、第二次上田合戦も真田に軍配があがる

 慶長5(1600)年9月8日、秀忠は上田城を諦め、小諸城に撤退。そこで軍議を開き、秀忠は本多正信の案を受け入れ、木曽路から西上することを決めました。

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