「真田丸」の物語

名胡桃城が乗っ取られる

秀吉が九州を平定、惣無事令を出す

 天正14(1586)年、秀吉は九州平定に着手します。翌、天正15(1587)年には九州制圧に成功。秀吉は関東・東北に惣無事令を出します。惣無事令とは大名間の私的な争いを禁じた法令です。この惣無事令が真田家、そして関東の趨勢に大きく関わることになります。

 

名胡桃城が乗っ取られる

 秀吉の令で、沼田領は3分の2が北条、3分の1が真田のものと定められていました。その境界線には、真田領の名胡桃城と北条領の沼田城がありました。名胡桃城の城主は鈴木主水で、その補佐役として中山九郎兵衛がついていました。中山九郎兵衛は地元の人間で、北条の沼田城の番卒(見張りの番の兵卒)と知り合いでした。
 沼田城城主、猪俣邦憲は沼田城の番卒を使って、中山九郎兵衛を騙そうと考えます。番卒は中山九郎兵衛に「城主の鈴木主水を殺せばあなたが城主になれる」とそそのかします。これにまんまとハマった中山九郎兵衛は、鈴木主水に「真田昌幸様がお会いしたい」と嘘の手紙を出します。鈴木主水はこれを喜び、上田城へ向かいます。
 鈴木主水は上田城へ向かう途中、岩渕城に立ち寄り、城主の矢沢三十郎に挨拶をします。矢沢は手紙を怪しく思い、「殿のお呼びなら私にも連絡があるはず、城に戻って確認したほうがよい」といいます。鈴木主水はその言葉を受けて、名胡桃城に戻ります。しかし、時すでに遅し、補佐役だった中山九郎兵衛が猪俣邦憲の兵を名胡桃城に引き入れており、すっかり乗っ取られてしまいました。
 鈴木主水は自分の不明を恥じて、近くの正覚寺で切腹してしまいます。

 

秀吉が小田原攻撃を決める

 この名胡桃城が乗っ取られた事件を真田昌幸は秀吉に報告、惣無事令に反するのではないかと訴えます。秀吉も大変怒り、小田原に兵を起こすことを決めます。

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