「真田丸」の物語

関が原の戦いは東軍の圧勝 信幸、父弟の助命を乞う

関が原の戦いは東軍の圧勝

 慶長5(1600)年9月15日、井伊直政が宇喜多秀家に鉄砲を射つ。これをきっかけに関が原の戦いが始まりました。西軍4万、東軍4万とも言われる壮大な戦いは、小早川秀秋の裏切りが決め手となり、夕方には東軍の圧勝が決まりました。

 

昌幸に足止めされてた徳川秀忠は遅れて到着

 一方、昌幸の守る上田城で足止めされてた秀忠は木曽路を行くも、険しい山道に歩みが遅く、関が原の戦いには間に合いませんでした。東軍勝利の知らせは9月20日大津にて聞いたといいます。

 

信幸は昌幸と信繁の助命を乞う

 真田信幸は父と親子の縁を切り、名を信之と改めます。父と同じ”幸”という文字を使わないようにしたのです。
 家康は信之に百万石の朱印状を出し、「真田昌幸と信繁の首をとってこい」と命じます。信之は「では、この百万石と引き換えに父・昌幸と弟・信繁の助命をお願いいたす」と返します。この言葉を受けた家康は昌幸と信繁を助け、信之に上田領を与えます。
 これには信之の義父である本多平八郎が助命を願い出たという説もあります。
 こうして昌幸と信繁の命は助けられましたが、九度山への配流が決まります。

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祖父、幸隆が武田信玄の家臣として活躍
信繁の祖父、幸隆は武田信玄の家臣として次々と戦果をあげます。
父、昌幸は信玄の奥近習衆となる
信繁の父、昌幸は幼いころ武田信玄に見出され、奥近習衆となります。
信繁の誕生
昌幸が信玄のもとで活躍する中、次男信繁(幸村)が誕生します。
長篠の戦いで伯父が戦死、父昌幸が家督を継ぐ
武田信玄の死後、真田昌幸は息子の武田勝頼に仕えるようになります。
昌幸、上野の領土争いで奮闘する
越後では上杉謙信が死に、景勝派と景虎派に分かれて後継者争いが勃発します。
武田家滅亡、昌幸は帰属先を転々とする
昌幸の奮闘もむなしく、武田家は家臣の裏切りに遭い、敢え無く滅亡してしまいます。このままでは真田家も同じ運命をたどると感じた昌幸は帰属先に考えを巡らせるのでした。
家康が上田城を攻撃 第一次上田合戦
昌幸が上杉に帰属したことを知った家康は激怒し、上田城攻撃を決めます。第一次上田合戦の始まりです。
昌幸が秀吉に帰属 家康と味方同士に
家康を退けた昌幸ですが、援軍を送らない上杉景勝に不満を持ち、帰属先を変えようと決意します。
名胡桃城が乗っ取られる
秀吉は九州を平定すると、関東・東北に惣無事令を出します。これで平穏が訪れたと思いきや、真田領の名胡桃城が乗っ取られるという事件が起こります。
秀吉の小田原攻め、信繁が初陣
小田原攻めを決めた秀吉は、真田昌幸に北陸の支隊を命じます。
第一次朝鮮出兵(文禄の役)、信繁は兵站を担当
石田三成と信繁が義兄弟となる
文禄3(1594)年、秀吉は伏見城の建設を始めます。信繁は普請奉行を命じられます。
第二次朝鮮出兵(慶長の役)の最中、秀吉死す
明の使者に激怒した秀吉は2回目の朝鮮出兵を決めます。
真田親子が敵味方に(犬伏の別れ)
秀吉の死後、勢力争いが勃発。家康につくか、三成につくかで真田家は揺れます。
徳川秀忠が上田城を攻める(第二次上田合戦)
昌幸は「徳川の第2軍が中山道を進軍するだろう」と踏み、上田で止めようと決意します。
昌幸と信繁、九度山に配流される
配流が決まった昌幸と信繁。九度山での生活が始まります。
大坂冬の陣 信繁に出陣命令
家康は豊臣秀頼に宣戦布告します。これが大坂冬の陣の始まりです。信繁と信之にも出陣命令が出されます。
信繁、大坂城入城、真田丸を建築する
大阪冬の陣 信繁は真田丸で奮闘する
大坂城の弱点である南をカバーしていた真田丸。さらにその南には、篠山という篠の生えた小高い丘がありました。そこに信繁は鉄砲隊を控えさせ、信繁自身は真田丸に入り、家康の軍勢にあたります。
和議が成立 堀も真田丸も埋められる
徳川軍の兵糧不足も現実味を帯び、また真冬の戦いということもあって、両軍の間で講和の話が交わされ始めます。
大坂夏の陣 信繁死す
堀は埋められ城は裸同然。そこで後藤又兵衛は平原に出て戦うことを提案します。