家康が上田城を攻撃 第一次上田合戦
昌幸が上杉に帰属したことを知った家康は激怒し、上田城攻撃を決めます。
天正13(1585)年、家康は軍を編成、上田城へ総攻撃をしかけます。ところが、上田城はもぬけの殻。罠だと気づいた時にはもう遅く、待ち伏せしていた昌幸の鉄砲隊が一斉に攻撃します。
かろうじて助かった兵は撤退しますが、今度は待ち伏せしていた信幸の軍に攻撃されます。この時の家康軍の死者は1300といわれています。
この後も家康は何度も上田城を攻めますが、ついに落とすことはできませんでした。
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