「真田丸」の物語

真田親子が敵味方に(犬伏の別れ)

天下は家康派と三成派に分かれる

 秀吉が死去した翌年の慶長4(1599)年、五大老の一人、前田利家が亡くなります。”重し”の無くなった家康は、大名同士の婚姻禁止という約定を無視し、多くの大名と政略結婚をし、次々と味方につけます。家康は徐々に天下取りに近づきます。
 一方、豊臣秀頼や淀君の信頼を得ていた石田三成は、豊臣家の政権維持を目的に、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家らと連立します。
 各大名は家康派か三成派の判断を迫られることになりました。

 

犬伏の別れ

 慶長5(1600)年6月、家康は上杉攻めを決めます。真田昌幸にも家康からの招集がかかります。
 昌幸は信繁にどうするかと訪ねます。信繁は、”家康が東下すると大坂で三成が挙兵する”と踏み、大坂にいる妻子を守りたいといいます。また、兄の信幸は家康につくでしょうとも答えます。6月には信幸が、7月には昌幸・信繁親子が出陣します。真田親子は徳川秀忠の軍に合流する予定でした。
 そんな中、石田三成から書状が届きます。”内府公(家康)が弾正様(上杉)を討つため東下したのは、太閤(秀吉)の約定に反する”。信繁の予想通り三成は兵を挙げるつもりです。昌幸・信繁は家康のもとを離れることを決めます。
 気になるのは信幸です。昌幸・信繁は布陣していた犬伏に信幸を呼びます。戦局を聞かれた信幸は「勝敗は時の運。親子が敵味方に別れるのも悪くないでしょう」と答えます。
 こうして信幸はそのまま家康に従い、昌幸・信繁は家康のもとを離れます。

 

どちらに転ぼうが真田家の不利にはならない

 信之は家康から小県郡を約束され、昌幸・幸村は信濃一国を約束されていました。つまり、関が原の戦いに結果に関わらず真田家が残ることはわかっていました。真田家にとって最も重要なことのひとつは本拠地を残すこと。お互い分かれることでそれを確定させたともいえます。

 

小松姫が昌幸と信繁を追い返す

 昌幸と信繁は犬伏を出発し、信幸の居城・沼田城に立ち寄ろうとします。昌幸は孫の顔が見たかったのです。沼田城にいる小松姫はすでに昌幸・信繁と信幸が敵味方になったことを知らされていました。昌幸と信繁が沼田城に着くと、「父上とは敵味方になりました。中に入れさせるわけにはいきません」と追い返します。さすが本多忠勝の娘といったところか。昌幸と信繁はそのまま上田城まで戻っていきました。

 

真田親子が敵味方に(犬伏の別れ)関連ページ

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