父、昌幸は信玄の奥近習衆となる
真田昌幸が7歳の時、武田信玄に人質として預けられます。信玄は昌幸の能力を見抜き、人質としては異例の奥近習衆(信玄の秘書)に抜擢します。
永禄4(1561)年、第4回川中島の戦いでは、信玄の夜襲が見破られ、上杉謙信との一騎打ちに持ち込まれます。このとき、昌幸は信玄の側に仕えていましたが、微動だにしないその姿に、信玄から「あっぱれ」と賞賛されたといいます。
昌幸は信玄の生母、大井氏の一族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛昌幸と名乗ることになります。人質の身でありながら信玄の一族に出世したのです。信玄は昌幸を「我が眼」と呼び、大きな信頼を寄せていました。
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